2007年02月03日

カントからイラクを見る

 青空文庫で、たまたまカントの小論文を読むことができた。『永遠の平和へ』というものだ。

 初めはなんの気なしに呼んでいたのだが、すぐにこれは現代の国際社会を考えるうえでも非常に役に立つことがわかってきた。特に、イラク問題に関して示唆するところがあまりにも大きい。

外圧による内政干渉は、スキャンダラスな事が起きていようと、自らの病と格闘している、独立した民に対する権利侵害であり、あらゆる国家の自治権を危ういものとする行為であろう。

 たとえどんな理由があろうと、ある国の問題はその国自身で解決すべきということだ。これは他国の尊重であると同時に、自国がもしもの状態に陥ったときに独立を保つための正当な権利主張の根拠にもなる。どんな国家であろうと自治権を侵害されるべきではないということだ。

 その点、今のイラク情勢はどうだろうか。米国は、この1795年に書かれた論文からいろいろなことを学んだほうがいい。

 ただ、イラク紛争は米国による報復措置という意味合いが強い。しかし、カントはきちんとこの点にも触れている。

戦争とは、法的効力を持つ判決を下すことのできる法廷が存在しないがため、権利主張を力ずくで行う、悲しい非常手段である。この場合、裁判官がいないので、どちらが間違っているかなど宣言することはできない。神の審判が下ったのだというがごとく、勝った方が正しいことになってしまう。しかし二つの国家間において、どちらが上で、どちらが下ということはないのだから、罰としての戦争などありえない。

「罰としての戦争などありえない」――。しかし、現に米国は罰としてイラクを侵略した。ここには米国が「世界の憲兵」としての自負、その度を超した傲慢があるために、「二つの国家間において、どちらが上で、どちらが下ということはない」はずなのに、米国自身はみずからが上だと考えている。だから、“世界秩序維持”などと称して他国の権利を無惨にも侵害する。

 こうなったもう一つの原因は、カントが指摘するように国家が行うことに対する審判員がいないことだろう。国連が無力だということは、今では小学生でもわかっている。では、大国が代わりに判断するのか。だが、それこそが大国による小国への抑圧に他ならない。

 ならば、勝ったほうが正義だといえるのか。しかし今のイラクを見るにつけ、けっして占領した米国の勝利とはいえないものがある。

 これらの先には何が待っているのかという問いに対し、カントは恐ろしい結論を導いている。

やはり戦争中であっても、敵の考え方に対して何らかの信頼が残っていなくてはならない。そうでなくては、平和を締結することができなくなってしまうだろう。憎しみにより敵を根絶するための戦争に突入してしまうだろう。

 そして――

だから敵を根絶するための戦争だと、両方とも根絶やしにしてしまうかもしれないし、何でもありということになってしまい、永遠の平和とは、人類の巨大な墓の上にしか存在しえないだろう。

 残念ながら、この論理を否定できるだけのものを私は持たない。兵器の性能が増している、すなわち大量殺戮が容易になっているだけに、「根絶やし」の危機はカントの時代以上に高まっているともいえる。そのことは、北朝鮮のような危険極まりない国が核を保有している可能性があることだけでも十分な論拠だ。

 こうした状態を脱するため、世界の恒久的平和を実現するために、カントは一種の連邦制である“世界政府”の設立を提案している。現代はいわば先進国という名の貴族が、途上国という名の平民を虐げている時代であるともいえよう。

 もし民主制国家のように、国際社会においても真の民主主義が実現されるならば、そのときこそ戦争という人類の軛から脱することができるのかもしれない。

 

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投稿者 KATANA : 10:10 | コメント (0) | トラックバック

2006年09月14日

目先の利益と後々の損害

 自民党の関係者がJリーグの試合において、スタンドで自分たちの宣伝をするなどという馬鹿なことをしでかしたようだ。

『イザ!』の記事によると、自民党の名前入りのうちわやTシャツを用意しただけでなく、“のぼり”まで立てたらしい。この厚顔無恥な行為に、当然サポーターやJリーグの関係者も怒りをあらわにしている。

 これは場をわきまえない、あまりにも愚かな行為であることは改めて言うまでもない。自民党の関係者に弁解の余地はないだろう。

 それにしても気になるのは、こうした馬鹿げた行いに対して内部から批判の声が出なかったのかということだ。この日、関係者だけでも約2,000人が観戦していたという。にもかかわらず、誰も止めようとしないとはどういうことか。

 もちろん、そういった意見は黙殺された可能性もある。しかし一方で、ひとりとして「これはいけない」と気付かなかった可能性も捨てきれないだろう。

 これが、日本の与党だというのだから呆れ果てると同時に薄ら寒いものも覚える。内部からの自浄作用が働かない組織は腐敗していくだけだ。自民党の不正は今に始まったことではないが、本当に先が思いやられる。

 この点、最近ネットで問題になってきている企業によるブロガーの買収やCGMの不正利用と共通する点もある。つい先日も、楽天がWikipediaで自社に不利な書き込みを削除しようとしたことを認めたが、こうしたことが起こるのは結局のところ目先の利益しか考えていないからだ。

 だから、長い目で見れば損害をこうむることがわかっているようなことでも、なんとなくしでかしてしまう。そして、後で“炎上”してから後悔することになるのだ。このことは他にも、ホリエモンや村上の末路を見れば明らかだろう。

 悪いこと、倫理的に間違ったことをすれば、いつか必ず自身に返ってくる。それは当たり前のことなのだが、そのことをきちんとわきまえている人は意外に少ない。ネットで著作権侵害があとを絶たないのも、そこにひとつの理由がある。

 よって、Googleの「Don't be evil」(悪いことはしない)というモットーは、抽象的すぎるという批判もあるが、まったくもって世の中の原理をきちんとわきまえたことだといえる。実践できているかどうかはともかくとして。

 つまるところ、大事なのはいい・悪いの判断を自分で行い、そのうえで自らを律することができるかどうかにかかっている。前述の自民党や楽天の関係者はできなかった。ホリエモンも村上もできなかった。

 それぞれがセルフコントロールできなくなったとき、社会全体の秩序の維持も難しくなる。人間はいつになったら、警察機関などなくても生きている世界を築けるのだろうか。

投稿者 KATANA : 15:32 | コメント (0) | トラックバック

2006年06月27日

本当の金持ちは金を持ちたがらない

夢は必ずかなう―物語 素顔のビル・ゲイツ 世界一の大富豪であるビル・ゲイツ氏の慈善団体に、世界第2位の大富豪であるウォーレン・バフェット氏が資産の大半を譲渡するという。

 海外では、富豪が慈善活動をすることはよくある。しかし、その中には一種のパフォーマンスとしてやる場合や、名前を売るために行う場合も多い。

 その点、今回の両者は資産のうちのかなり部分を費やしているから、そういった例とは違うと考えていいだろう。

 面白いなぁと思うのは、“大富豪の中の大富豪”である人たちはお金をため込むことの虚しさをよくわかっているということだ。よく金持ちほどケチとは言うけれど、それは“小金持ち”の場合であって、本当の“大金持ち”は意外に使うべきところをよくわきまえている。

 考えてみれば、億単位どころか兆に近い額の資産を持っていれば、結局はお金ばかり持っていてもどうにもならないということがよくわかるのは当然かもしれない。だから、その余分な金を慈善活動などに費やそうとするのだろう。そうしたほうが、よほど生きている実感が得られるからだ。お金の計算なんかをしているよりも。

 興味深いのは、反対にみずから質素な生活をしている人もお金の虚しさに気付いていることである。社会階層の両端で同様の思想を持っている。つまり、精神的な面では階層の上と下とはつながっている、リングになっているのかもしれない。

 そのためネガティブな面を見れば、いくらお金を稼いでもこころに虚しさを抱えている人もいれば、反対に「貧すれば鈍する」の状態に陥ってしまっている人もいるのだろう。

 ということは、身分階層に上も下もないのかもしれない。すべては円環の内に。金持ちも貧者も窮することがあれば、金持ちも貧者も幸福にいたることもある。まったくもって面白い。

投稿者 KATANA : 17:49 | コメント (0) | トラックバック

2005年09月07日

郵政問題で知っておいてほしいこと

 ここ数ヶ月、政治の世界では郵政の民営化についての議論が激しく戦わされている。少し時期が遅れてしまったが、 私なりの考えを記してみたい。

 一般に郵政について語られているところを聞くと、気になることが二つある。それは、ある要素に対する“勘違い”と“誤謬”についてもの。

 ひとつは、郵政へのとらえ方自体のことだ。大半の人々は「公務員=お役所しごと」、つまり郵政は非効率であるという考えである。 確かに郵政も公的機関であり、巨大な組織である以上、そういった面はあるだろう。しかし実は、すべてがそうではないのである。

 むしろ、郵政の現場――すなわち郵便局で実際に働いている人々は非常に厳しい状況に置かれている。なぜか? まず、 きつすぎるノルマの問題。郵政民営化の議論が巻き起こり、公務員に対する国民の見る目が厳しくなっているせいなのか、 ともかく尋常ではない仕事量をこなさなければならないのだ。

 郵便の配達員がバイクで歩道を走ったり、小包の受け渡しのためにしつこく呼びかけたりしているところを見かけたことが一度はあると思う。 あれはノルマ達成のために、そうせざるをえないのでやっているという面もあるのだ(もちろん、それがすべてではないが)。

 現場での苦しさを物語るように、郵便局員が病気で倒れたり鬱病になってしまったりといったことが相次いでいる。そして、 きつい仕事に耐えきれずに辞めていく人も多い。

 さらには現場の局員にかぎらず、中間管理職にある人々も心身両面の不調を訴えている。なぜなら現場に近い立場にいるがゆえに、 そこで働いている部下たちの苦しさがわかるのだが、上からは厳しいノルマを突きつけられ、いわば上と下からの板挟みに遭ってしまっているのだ。

 はたして、こういった現状を踏まえた上で「公務員=お役所しごと」といえるのだろうか。少なくとも私はいえないし、いいたくない。 現場で働いている彼らはある意味、民間企業のサラリーマン以上に辛酸をなめさせられている。 公務員であるために、自分たちを保護してくれる労働組織が事実上ないから、 ほとんどの場合文句をいうこともできずに泣き寝入りするしかないからだ。

 郵政問題についての議論において、このことが話題の上ることはまったくない。つまり郵政民営化の支持者たちは、 郵政をまさに扱っていながらその郵政の現場をまるで知らずに計画を進めているのである。仮に民営化の必要があるとしても、これほど“調査不足” のまま議論を進めてしまっていいものだろうか。

 情けないのは、マスコミも同様である。リゾート施設への資金の無駄遣いや特定郵便局の世襲制などセンセーショナルなことは扱うものの、 肝心の基礎的な部分の報道がまるでなされていない。これでは、国民が「郵政の現実」を知らないままになってしまうのも無理はない。

 つまりこの点に関して指摘したいのは、一口に郵政といってもいろいろあるということだ。確かに、資金の無駄遣いや信じがたい世襲制、 そして一部の責任ある立場の人間の無責任はできるだけ早く是正されなければならない。しかし中には頑張っている、苦しんでいる人もいるのである。 そういった人々をも含めて、十把一絡げに「郵政=問題」とするのはいかがなものだろうか。

 気になるもう一点は――こちらがより根本的な問題なのだが――郵政改革について根本的な勘違いがあることだ。それは、「効率化=民営化」 とされていること。「公的機関は非効率なことが多いから、民営化すれば無駄がなくなるだろう」、一見するとこの主張は正しいようにも思える。

 しかし、待ってほしい。民営化すること、すなわち民間企業となることが効率化することに繋がるというのなら、 なぜ当の実業界では非効率な企業が問題になっているというのか。コクドグループしかり、 三菱グループしかりである。今まさに企業の非効率な面が議論されているというのに、なぜその一方で郵政問題では「効率化=民営化」 などといったことが当然のごとく考えられているのか。

 これは大きな、そして危険すぎる勘違いである。結論をいえば、民営化したところで効率化される保証などどこにもない。それどころか、 かえって危うい面もある。

 こうした意見に反論する人は、「JRやNTTはうまくいっているじゃないか」というだろう。しかし、これこそが危険性の最たる例なのだ。

 たとえばJR。最近、JR各社それなりにいい業績を出しているのは、全面的に企業としてうまくいっているというわけでは全然なく、 ただ単に旧国鉄時代の資本を利用しているにすぎない。そして、こうした資本はもともと国民の血税を費やして得たものである。 つまりJRは企業として発足するに当たって、ほとんどの資本を“タダ”で手に入れたということだ。これならば、短期的には利益が出て当然である。

 これは日本航空についてもいえる。もともと半官半民の企業だったから、JRの場合と大差ない。NTTも今のところはうまくいっているが、 これから競争が激化していく中で長期的にどうなるかはまったくわからないだろう。

 そして象徴的なことが、JRやJALで近ごろ不祥事が相次いでいることだ。これこそ、 公的機関を民営化したところで必ずしも効率化されるわけではないことの極めて明確な証左となる。

 さて、こうしたことを知ったうえで皆さんはどう考えるだろうか。私は何も、改革の必要性がないと言っているわけではけっしてない。 むしろ先にも少し触れたように、いろんな意味で改革の必要性は大アリである。ただし、その方向性が「民営化」で合っているのかということだ。 しかも現場の苦しさや、実業界で蔓延している“人材の切り捨て”という事実を考えると、 民営化することでさらに組織の末端にいる人々に最悪のしわ寄せがいきかねない。

 問題は民営化うんぬんなのではなく、組織の在り方なのである。 民営化されても組織が狂っていては意味がない、逆に公的機関でも組織が健全ならばそれでまったくOKなのである。

 これから日本も「小さな政府」を志向していくのは、歴史の必然であろう。しかし、それが公的機関の単純な民営化であってはならない。 成功すればいいものの、失敗すればさらなる闇を引き起こしかねない。公的機関が公的機関とされていたのには、 それなりの理由があるのだから民営化という切り捨て御免のシステムではリスクが大きすぎる。

 滑稽なのは、郵政民営化を主張する今の議員たちが「公的な存在=非効率」 とみずから宣言しているようなものだということに気付いていないことである。「私は公務員です。ですから、私は非効率です」。 公務員の存在意義を自分で示すためにも、まずは公的機関のままでやれるべきところまでやることが重要なのではないだろうか。

 一部では、「改革を口で言っているだけでは何も始まらない。とにかく始めることが大切だ」とする意見もある。「細かいことは後でいい」 と。これは正しいように見えて、まったく無茶苦茶な主張である。こういった考えこそが、 これまで失敗に失敗を重ねてきた公共事業の根本にあるのだ。全国総合開発計画が最もわかりやすい例だろう。

 公民にかぎらず、大きな事業を行うためには十全な下準備が必要である。行き当たりばったりでうまくいくほど、世の中はあまくない。 それだけに、“現場を知らない”郵政民営化の推進派に対して不安がある。

 もちろん、「始めなきゃ始まらない」。しかし、今のままでは民営化しても必ず失敗するだろう。本当はどうすべきなのか。 われわれ有権者はいま、判断を迫られている。

投稿者 KATANA : 17:58 | コメント (0) | トラックバック

2005年07月16日

日本の労働環境を見る

『労働基準監督官 和倉真幸』フジテレビ  たまたま、フジテレビで放送された『労働基準監督官 和倉真幸』というドラマを見た。 最近のTVドラマはどれも似たり寄ったりなのだが、現代の労働環境をテーマにするというなかなかに面白い設定だ。

 それにしても、と考えさせられたのが、普通ドラマは“フィクション”なのだから現実の事象よりも誇張されるのが当たり前なのに、 少なくとも現在の日本における労働環境に比べたら、ドラマで描かれていたほうがましだった。社会に出て働いている人ならば、 それが嫌というほどわかるだろう。

 企業の多くは、人材を使い捨てと考えている節がある。特にシステム・エンジニアやコンピュータ・ゲームの業界などでは、 無茶苦茶なスケジュールで働かせ、30歳頃になって疲労がピークになった頃に切り捨て、 また若手を導入してそのサイクルを維持するといった傾向が強い。ときおり、「うちの開発現場では平均年齢が低い。 それだけ若手にチャンスを与えている」などと誇っている会社も存在するが、そんなものは胸を張って言うようなことではない。裏を返せば、 長く続けられるような仕事ではないということなのだから。

 他にも、近ごろ民営化の話題で注目されている郵政においても、実際に郵便局の現場で働いている人たちは、常軌を逸したノルマを課され、 そのうえ上司からきつく当たられるために、鬱病になってしまうことも少なくない。郵政とあまりかかわりのない人々の中には、 「郵便局員も公務員だから、お役所仕事でのらりくらりとやっているんじゃないのか」と思っている場合が多いかもしれないが、 現実は退職者が続出するほどその労働環境は劣悪だ。

 そしてドラマでも触れられていたように、パートやアルバイトの問題も大きい。これこそ、コスト優先の “切り捨てシステム”の最たるものといっていいだろう。ドラマ内で、 スーパーの社長がパートの女性たちに対して「お前たちの代わりなんていくらでもいるんだよ!」と叫んでいたが、 経営陣のこういった心理こそが現在のさまざまな労働問題を招いてしまっているといっても過言ではない。

 また日本の場合、労働運動が事実上死滅してしまったことも大きな原因だ。先の尼崎におけるJR西日本の列車事故でも、 労組は企業の側に問題があることを以前から知っていながら、結局なんら有効な策をとることができなかった。 アメリカでは先日大手スーパーの労働者によるストライキが起きたように、欧米では当たり前のように労組が労働者を守っている。しかし、 日本にはそれがない。これがもたらすものは、すなわち従業員の泣き寝入りだ。そして、企業の側は“物言わぬ機械”と化した人々を、 またいいように利用する。

 企業の側からすれば、倒産してより多くの社員が路頭に迷うよりは、一部を切り捨てるほうがましという意見もあるだろう (おそらく大半がそうだ)。多数を助けるために少数を犠牲にすることが許されるのかという問題は、 人類にとっての永遠のテーマであるからここでは置いておくが、多数の人々が職を失っていることは事実なのだ。人員の整理は、 一部の企業が行っているだけではない。日本では今、大半の企業が同様のことをやっているのだから、 仕事にあぶれた人々があふれるのも当然のことだ。

 人材の切り捨ては、当該企業にとってはプラスになるかもしれない。しかし日本全体で考えたときに、 その余った人材はどこへ行けばいいというのか。現在は、フリーター450万人の時代といわれる。これにニートや、 人材派遣会社に所属しながら仕事にありつけない人々の数を加えたら、軽く500万は超えるだろう。これらは隠れた失業者数だ。 つまり現実の失業率は、一般にいわれているよりも遥かに大きい。しかもその大半が、20代から30代前半の若年層なのだから目も当てられない。

 こういった現状と先行きの厳しさに、はたして政治家や官僚、そして企業の経営陣は気づいているのだろうか。人員整理は、 確かにもっとも手っ取り早い再建策ではある。事実、日産はそれによって立ち直った。しかし、それはあくまで“短期的”な効果でしかない。

 たとえば、リストラは確実に社会的イメージを損ない、場合によっては信用をも失うことになる。問題は、 取引きが厳しくなるなどの経営的な事柄ではない。それよりももっと重い、「いい人材が来なくなる」ということだ。 経営が苦しくなったら社員を切り捨てるような企業に、いったい誰が喜んで行くというのか。いいものを持っている人ほど、 こういった企業を見限るだろう。

 いま組織のトップに立っている人々の大半は、まるで先が見えていない。切り捨て以前に、 人材の育成がほとんど出来ていないということもその一例である。頭が痛いのは、大企業でもその傾向が強いことだ。会社を支えるのは、 余剰資金でもなければ固定設備でもない。ましてや経営陣であるはずがない。実際に基盤となり支柱となるのは、現場で働く社員たちなのだ。

 人材育成の不徹底、そして人員の切り捨ては、長期的に見て企業をかならず窮地に追い込む。さらにそこからあぶれた人々の困窮、憎悪、 絶望は、将来日本という国を根底から揺さぶるだろう(すでに“地震”は起き始めている)。これらはもはや、経済だけの問題ではない。 明確な社会問題なのである。

 できるだけ早く手を打たなければならない。ただ、そもそもこの問題を真剣に考えている人々が、特に組織のトップに一体どれだけいるのか。 それが不安でならないのだが。

投稿者 KATANA : 20:49 | コメント (2) | トラックバック