2006年08月08日
世界戦以来、亀田興毅の周囲が騒がしい。
確かに判定は微妙な面があったわけだが、どうにも騒ぎすぎの気がしてならない。どうしてこうなってしまったのだろうか。
ひとつには、間違いなく亀田興毅の普段の言動が原因にある。強気すぎる態度や対戦相手へのあからさま挑発は、そういったパフォーマンスを好む人々がいる一方で、反対に明確に嫌う人々もいる。これまでは試合にKOで見事に勝っていたから後者は比較的沈黙していたのだが、疑惑の判定のせいで一気に不満が噴出したのだろう。
また別の面では、日本人特有の性質も考えられる。もしここがイタリアだったら、サッカーのW杯でジダンを退場させたマテラッツィを称賛したことからもわかるように、とにかく亀田興毅が勝ったことに満足したはずだ。
しかし、日本人は違う。たとえ勝ったとしても潔いものでなければ、その価値を認めたがらない。ジダンに対する同情心が強く、2002年のW杯で快進撃をつづけた韓国に疑惑の目を向けたのもそれが原因だ。
だから今回の騒ぎは、日本を象徴しているものとも言える。一方では暗い時代背景を反映しているのか、“強い存在”を欲している人々がいる。もう一方では絶対的な存在を嫌い、出る杭は打とうとする。結果として、亀田の擁護派と批判派がはっきりと分かれることになる。
ただ、彼に対する批判的な意見が強いのは本当にそれだけだろうか。私はその背後に、どうにも暗いものを感じてならない。
結局、批判派は亀田興毅がうらやましいのだと思われる。いつも強気で本当の力量もあり、父や兄弟と強い絆で結ばれている。今は難しい時代で家族崩壊が叫ばれて久しいからこそ、羨望の目を向けたとしてもなんら不思議はない。
批判派はつまるところ、そうしたうらやましいという気持ちをネガティブな方向へ働かせてしまっているのだろう。「うらやましい、だから自分もああなれるように頑張る」というようにポジティブな方向ではなく、「うらやましい、でもそれを認めたくないからアイツを否定したい」という悪い方向へ。
はっきり言って、これでは誰も救われない。相手を下げることで相対的にみずからを高くしようとすることは、実質的には自分の程度の低さを露呈するようなものである。他人の不幸は蜜の味というが、それは自分を駄目にする禁断の味でもある。こういったことを続けるかぎり、本人はさらにひどくなることはあっても良くなることはけっしてないと断言できる。
さらに、貶められた側も快く思うはずがないだろう。たとえ中身のないものであって誹謗中傷がつづけば、やがてはそれに押しつぶされてしまうことも有り得る。誰も救われないとはこういった意味である。
そもそも今回、亀田興毅自身は自分のやれるかぎりのことをやったのだ。判定に問題があったとしても、それはジャッジの側の責任であって亀田にはなんの落ち度もない。判定を理由に彼を非難するのはお門違いである。ましてや、たいした証拠もないのに憶測だけで八百長を疑うなどというのは、愚かしいにも程がある。
批判派は亀田にとやかく言う前に、一度自分のこころを見つめ直してみたほうがいい。そのうえでやはり亀田が悪いと思うなら、堂々と批判すればいいだろう。しかし、自身の内側にある黒い部分に気づきながらもそれから目を背けるようでは、もはやその人に未来はない。
【関連サイト】
http://www.iza.ne.jp/news/newsarticle/sports/13778/
http://www.iza.ne.jp/news/newsarticle/sports/13808/
投稿者 KATANA : 2006年08月08日 14:09
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